プロジェクト・ヒストリー

スフ乾燥機(ステープル・ファイバー乾燥機)の開発・製造。1)綿花輸入制限。昭和7年(1932)ころ、わが国の工業を支えていたものは綿紡績事業で、優良大会社といわれる企業のほとんどは綿紡績会社でしたが、欧米諸国は日本に対する輸出品の制限ないし禁止を打ち出し、その第一が綿花でした。2)スフ(ステープル・ファイバー)の先駆者・日東紡績株式会社。この状況を予想された日東紡績株式会社が、業界の先駆者として、綿に代わるスフ(ステープル・ファイバー。くずわた・木材などから作った繊維)の開発に着手されました。日東紡績株式会社は、片倉製糸紡績株式会社の子会社で、社長片倉三平氏は片倉製糸紡績株式会社・常務片倉武雄氏の実弟でいらっしゃいました。3)日東紡績株式会社のスフパイロットプラント・本格的生産。スフパイロットプラントは、福島工場に建設が進められ、この建設挺身隊の中に、昭和9年(1934)~15年(1940)日東紡績株式会社の機械設計製作担当であった若き日の大和精一(創立者大和哲三の長男で後年㈱大和三光製作所社長)が新進技術者として参加していました。スフ乾燥機は、わずか2か月で稼動させることが至上命題であり、大きな開発は許されませんでしたので、汽熱式6段乾繭機の構造を踏襲することとして改善しました。幸い、工事は昼夜兼行で行われ所定の期間に完成し、乾燥作業の結果、好成績を上げることができ、翌年には同型機2台を増設して、日東紡績株式会社はスフの本格的な生産に先鞭をつけられました。4)冨士紡績株式会社系列の意向・合意。昭和10年(1935)に日東紡績株式会社・福島工場が、スフ綿の本格的生産を開始されると間もなく、冨士紡績株式会社様系列の冨士繊維工業株式会社様が設立され、静岡県冨士にスフ工場を建設することとなりました。同社技術者の意向は、スフは発火点が低いことなどで、5段型段落式とし、斜面装置をつけて1階床面で供給する。輸送帯の金網はラチス式とし、加熱方式は乾燥機外部にエロフィンヒータと多翼型送風機およびダクトを装備し、熱風を乾燥機室内に導入乾燥し、熱気の一部は循環し一部は排気する機構とし、乾燥能力は、毎時1.5トンという条件で合意しました。5)スフ熱風乾燥機5段型の開発。1.川嶋組鉄工所の協力。川嶋組鉄工所は各地の製糸工場などで、理研興業会社が特許権を持つ貯繭庫内の空気をダクトにより多翼型送風機で、アドソールタンク内に送出循環させる除湿装置の工事を請負われていました。そのため、川嶋組鉄工所と株式会社大和三光商会と現場が一緒になることがたびたびあり、面識の間柄でした。同社技術課長蟹澤金治氏により、冨士繊維工業株式会社の乾燥機用熱源系統について、懇切な教示と設計にも協力して頂きました。2.川嶋組鉄工所 新会社設立・倒産。川嶋組鉄工所は、この取引が完了すると間もなく板橋に膨大な土地を求めて、大日本化学機械株式会社を設立移設され、従業員500名以上を数える工場となられました。同社技術課長・蟹澤金治氏は、大日本化学機械株式会社に移られる前に退社され、株式会社大和三光商会の専属となられ、スフ乾燥機の製作に腕を振るって頂きました。3.川嶋組鉄工所のスフ乾燥機。川嶋組鉄工所社長川嶋美保氏は、冨士繊維工業株式会社が翌年同型機を2台増設する話を聞き自ら運動し、社員を派遣して第1号機を、内々スケッチし製作納入されました。この経験が、後の川嶋式熱風乾繭機の開発につながることとなりました。4.大和式スフ熱風乾燥機引合活発。昭和10年(1935)春ころから紡績会社・人絹会社のスフ・綿生産計画が具体化し、大和式スフ乾燥機の引合いが活発となってくるにしたがい、大体これらの大手企業の本社が主として大阪地区であるため、大阪への出張回数がだんだん多くなりました。6)スフ熱風乾燥機の販売。大和三光商会が鉄材を購入していた岡谷合資会社(後に岡谷商店と改称)東京支店から話を頂き、スフ熱風乾燥機の販売を同社大阪支店貿易部(後に工機部と改称)に取扱わせてもらえないだろうかというお話を頂きました。そして、岡谷合資会社と面談をさせて頂くこととなりました。部長の羽田純一郎氏が上京し、懇談の結果、綿・毛・人絹各業界に対する人脈、そしてスフ生産工場の建設計画状況等、現在の情勢を事細かに教えて頂くことができました。契約当事者は 岡谷合資会社となり、株式会社大和三光商会はメーカーとして参画させて頂く形で合意となりました。7)スフ熱風乾燥機の設備増大・受注増大。株式会社大和三光商会としては、スフ熱風乾燥機については、厳しいチェックをクリアしながら、多くの製品を納入させて頂くことができました。三重人絹株式会社・津工場、日出紡績株式会社・舞鶴工場が発注されると、引続き、錦華紡績株式会社・広島工場、東洋紡績株式会社・岩国工場、帝国人造絹糸株式会社・麻里布工場、倉敷絹織株式会社・西條工場・新居浜工場・倉敷工場、東京人造絹糸株式会社・沼津工場、東邦人造繊維株式会社・徳島工場、東洋絹織株式会社・松前工場、新興人絹株式会社・大竹工場等と、矢継ぎ早に、ご発注を頂きました。昭和11年(1936)末には、僅か1週間の内に、倉敷絹織株式会社・西條工場3台、東京人造絹糸株式会社・沼津工場10台と合せて契約頂きました。その後、 昭和12年(1937)、昭和13年(1938)、昭和14年(1939)とあまりに大きな変動にただ目を見張るばかりでしたが、これを円滑に消化できたのは、永年の協力工場のおかげであり、自工場生産ではとうてい不可能でした。大和式スフ熱風乾燥機も、付属設備として、カッタ・自動フィーダ・オープナ・コレクタ等まで完備するようになりましたが、設備が一巡するとピタリと市場の需要は途絶えました。しかし、昭和9年(1934)日東紡績株式会社にスフ乾燥機のパイロットプラントを実施してから昭和14年(1939)までに約60台のスフ熱風乾燥機を納入することとなりました。スフ熱風乾燥機は、日本の工業乾燥機の歴史の中でも、大きな位置を占めていたと言えます。8)スフ熱風乾燥機の製作と協力会社様。大和式スフ乾燥機は、昭和10年(1935)から13年(1938)まで全盛で、わが国の総生産額の70%は大和式スフ乾燥機によって乾燥されたものと言われるほどに成長しました。鉄骨・保温板関係では木島・内藤鉄工所がフル操業を続けられ、熱源系統の設計計算製作は、蟹澤金治氏の共益製作所に全面的にバックアップ頂きました。この面で実際製作面は、川嶋組同僚技術者であった青柳氏、製造面を担当する竹平・奈木良氏等が赤羽東洋化工機製作所に転職されていたため、こちらの工場にご協力を頂きました。ダクト関係は元川嶋組の方々が板橋付近に相当自営されていたので、株式会社大和三光商会に協力して頂くことができ、協力会社のみなさまには、大きなお力添えを頂きました。