プロジェクト・ヒストリー

<日本蚕糸機械工業組合設立>1938年(昭和13年)、日本は統制経済に入り、物資がだんだんと不足し、あらゆるものが配給制度となり、資材など自由に入手することができなくなってきました。アングル・鉄板・丸棒・パイプなどの資材の配給を受けるためには、各会社ごとでなく全国の蚕糸機械関連業者の団体として、組合を組織しなければならなりませんでした。日本蚕糸機械工業組合設立にあたっては、当時、当社の社長であった大和哲三が、いち早く、蚕糸機械業界の先頭に立ち、率先して発起人となり、全国に会員をもつ「日本蚕糸機械工業組合」として発足しました。当時の会員数は、正確な数は不明ですが、約120社ほどで、初代会長に千葉産業株式会社社長の千葉壬驥氏、理事に当社代表の大和哲三が選ばれました。1941年(昭和16年)12月、第二次世界戦争が勃発、日本蚕糸統制組合員である製糸工場は、落下傘やその他に使用される生糸の増産に力を入れ、日本蚕糸機械工業組合員である蚕糸機械関連業者は、資材の配給を受け蚕糸機械機器を製造し、製糸工場に供給しました。蚕糸機械関連業者の中には、軍需工場に転換した企業や戦災で焼失した企業などが続出し、1945年(昭和20年)に終戦となったことで、協会員も減少しました。<蚕糸機械協会>1945年(昭和20年)8月には終戦となり、統制経済が解除され、日本蚕糸機械工業組合は「蚕糸機械協会」と改称、親睦団体として再出発することとなり、1949年(昭和24年)には、協会員数が当時より半減して66社となりました。1948年(昭和23年)5月には、当社の初代社長である大和哲三が会長になり、1953年(昭和28年5月には、宇野工業株式会社の社長であった宇野優氏が会長に就任され、1960年(昭和35年)11月には千葉産業株式会社の社長であった南條善雄氏が会長に就任されました。<日本蚕糸機械協会>1965年(昭和40年代)に入り、日本経済はますます発展し、日本蚕糸業もより発展のため、蚕糸機械関連業者相互の親睦・連絡・協調・情報交換などを図り、蚕糸関連機械・薬剤などの研究開発を活発に行なう目的で、1968年(昭和43年)11月、「日本蚕糸機械協会」と改称し、当社の二代目社長・大和精一が会長となりました。その後、会員数も20数社と減少しましたが、日本の蚕糸機械関連業者の代表的なメンバーが残る形となり日本蚕糸業発展に寄与しました。