プロジェクト・ヒストリー

中国・ソ連へ乾繭機を初輸出。1936年に、中国とソ連(現ウズベック共和国)向けに「特許大和式乾繭機」を初輸出しました。中国への輸出。1935年夏頃、日本との紛争をよそに中国から女性を含む5人の製糸業視察団が来日されました。製糸業視察団は、民間では片倉製糸紡績株式会社、大宮製糸所その他、官庁では農林省蚕業試験場を訪問して、設備や技術など多方面の勉強をされました。農林省蚕業試験場に設備されている「特許大和式乾繭機」のカタログ・仕様書・見積書などを要望され、間もなく三井物産株式会社の上海支店を経由して同型乾繭機が注文されました。翌年1936年、若藤巳之吉と市川友之助(監督)が据付のために中国へ渡航し、無事引渡しを完了して帰社しました。ソ連への輸出。ソ連向け乾繭機は、北満州鉄道をわが国がソ連から買収したため、その代金の決済を物資提供によって行なうことがきっかけで、輸出することになりました。ソ連通商代表部は、東京駅前三菱赤レンガ街の一角にあり、当時は貿易国策などの政策も無いし、大和三光商会もその引合に対して特に期待を持ったわけではありませんでした。引合いは電話でしかも英語できましたので、英会話のできる社員などいないために会社は困惑しましたが、小原三二が電話に出て、ソ連通商代表部が「乾繭機の見積りを聞きたい」という趣旨であることはおぼろげにわかりましたので、「すぐに参上します」と返答し、電話交換手に場所と訪ね先を確かめて、訪問しました。1、乾繭機型式ソ連通商代表部の商務官は製糸関係には全くの素人で、ちょこちょこノートを見て話されましたが、そのノートに挟んである写真を盗み見したところ、大和式8段型乾繭機の印刷写真の切抜きされていました。「1昼夜乾燥能力10トン」とのことで8段特一号型を見積もることとし、仕様書・特長・見積書すべて英文で作るようにと指示を受け、次回の商談に臨むこととなりました。2、交 渉。第1回目の交渉は、通訳不在で、商務官と小原三二と2人だけで話をした。片言の英語に手まねと絵であったが、約1時間くらいかかり金額は分っているので値引の交渉が始まりましたが、値引できない旨を宣言して譲らず、次回の商談に臨むこととなりました。第2回目の交渉は、通訳を交えて終始値段の折衝にかかり、商務官は頭から20%引を強硬に主張し、こちらは1万3千円ちょうどで、それ以上は絶対値引できないとがんばり通し、結局商務官もしぶしぶ納得し商談が成立しました。3、発送・納入工場確認。1936年1月末頃、梱包明細書、据付方法など詳細に英文で添付し、ソ連指定倉庫へ搬入しました。「大和式乾繭機」は、ソ連に発送したがどの地区で、果たして据付ができて稼動しているのかは、まったくわかりませんでした。納入してから20年後の1956年に、モスクワで日本産業見本市が開催され、わが社は写真パネルを出品しました。そのとき二代目社長大和精一が訪ソして聞いた話によりますと、ソ連タシケントの製糸工場に大和式乾繭機があるとのことでした。その後、「大和式乾繭機」を発送してから23年後の1959年、ソ連の日本蚕糸業視察団(当時ウズベック共和国マルギランシルクコンビナート技師長ブルファーノフ氏)が来日し、当社に来社された時、乾繭機の話をしたところ「自分の工場に設置され、私が現在も使用している」とのお話をお聞きしました。予期しなかったお話でしたので、社員一同驚きました。その時、ブルファーノフ氏から「マルギランシルクコンビナートにおいては大和三光製の乾繭機が1936年から稼動しています。 ブルファーノフ」とのサインを頂きました。また、たびたび訪ソしている当社社員の野田弘・長谷川茂によって「大和式乾繭機」が健在であることが納入されてから48年後に確認されています。その後、ソ連(現ウズベック共和国・タジク共和国)には、「特許大和式熱風乾繭機」他が、シルクコンビナートおよび独立乾燥場に20台納入されました。日本の海外への輸出がまだそれほど盛んではなかった時代に、これらの機械を海外の国々へ輸出できたことは、日本の製造業の発展の一助としてお役に立てたのではないかと思っています。